小野洋蘭果樹園ではさくらんぼ、すもも、もも、ぶどう、かきを栽培しています。
これらの果物にはそれぞれのこの地が産地となっていった理由があります。
ぜひ果樹園で作られるくだものと、その物語にお付き合い下さい
桃のはなし
弥生時代の遺跡から発見された桃の種 南アルプス市文化財課さんによる地域の遺跡発掘から、弥生時代の集落跡から桃の種が出土しています。 それくらい昔から、この地に桃があったという事ですが、当時の桃は食用というより、薬や呪いの祭事に使われたのではないかと推測されています。 古事記や桃太郎の説話でもそのような記述がみられています。 江戸時代前期の甲斐の国で藩主を務めた柳沢吉保の統治時代(1704年〜1724年頃)、当時の甲府藩は桃の栽培を奨励したという話が伝わっています。 江戸時代でも桃は、花を楽しむ花桃としての役割が主流で、実は漬物にしたり、煮たりして食べるという使い方がされていたそうです。 とはいえ江戸時代後期、山梨の果物はすでに「甲斐八珍果(峡中八珍果)」という名前でブランド化されていました。 その名の由来となったのが、**1851年に出版された地誌『甲斐叢記(かいそうき)』**です。 著者の大森快庵は、甲州街道を通じて江戸に運ばれ珍重されていた8つの果物(ブドウ、モモ、ナシ、カキ、クリ、リンゴ、ザクロ、クルミまたはギンナン)を写生し、 この名を付けました。
桃が当時特産品として栽培していたことが分かります。

甲斐叢記 山梨デジタルアーカイブより
とはいえ、現代の甘い桃が登場するのは明治時代以降です。
【明治時代】「水蜜桃(すいみつとう)」の衝撃
- 生食革命(明治8年頃〜):
- 明治初期、中国から2系統の桃が日本に導入されました**「上海水蜜桃(シャンハイスイミツトウ)」**と**「天津水蜜桃(テンシンスイミツトウ)」**です。
- これが日本の桃の歴史をひっくり返しました。
- 革命的な味:
- 名前の通り「蜜のような水気」を含んだこの桃は、それまでのガリガリした桃とは別次元の甘さと柔らかさを持っていました。
- これ以降、日本中で「桃=甘い生食フルーツ」という認識が一気に広まり、品種改良競争が始まりました。
- 「白桃」の誕生(明治32年):
- その後、岡山県で**「白桃(はくとう)」**が上海水蜜桃からの偶発実生(親の実の種を育てたものを選抜したもの)として発見され、これが現在の日本の「白くてなめらかな桃」のルーツとなりました。
南アルプス市西野地区での「くだものづくり」への挑戦
南アルプス市西野地区は、南アルプス市東部の御勅使川(みだいがわ)扇状地の扇央部に位置する、河川の氾濫砂礫が堆積した緩やかな傾斜地の平坦な土地です。扇状地地形の特徴として、水はけがよいのですが、地下水位が低く。つまり水不足に悩まされ、水田はもちろん、畑作を行うにも石ころだらけで大変な土地ということです。
そのため平安時代よりこの地域は甲斐の黒駒に代表される、軍馬を生産する牧として成立し、そのことから、武田一族のような武門がこの地を支配していました。南アルプス市からは、武田氏が甲斐の国に入植する過程で弟から分家した一族である、小笠原氏の本拠地であり、今も小笠原氏は弓馬の名家として、その技法が受け継がれています。
とはいえ、お米の作れないこの場所は、江戸時代を通じて年貢をお米で納めることのできない土地であり、江戸時代の士農工商の時代にあっても、この場所では、物納や金納による年貢が行われていました。つまり、農民でありながら、自ら加工を行い、自ら販売を行う現在の6次化農業のようなことが行われていた土地という事です。
このようなことが当然のように行われており、さらにそれを江戸幕府が追認していたことは、県内に残る「野売免許状の龍朱印」の写しによって確認することができます。現在存在する武田信玄によって発給されたとされる免許状は偽物であるとされていますが、要は、私たちが農家でありながら他の集落で販売を許されているのは、武田信玄の時代にこの土地に許された特別な許可状があるからだ!
ということが、江戸時代になっても効力を発揮し、他の地域での諍いが起こった場合にはこの「偽免許状」であってもその証拠として通用(させて)いた。ということです。

南アルプス市文化財課HPより 個人蔵 「菓もの類野うり免許状」
江戸時代この地の農家は、秋になると、渋柿を収穫して渋抜きを行い、「さわし柿」と言ってカゴに詰めて甲府盆地の他の地域で販売していたそうです。
さらに木綿やたばこも栽培され、それらも自分で糸にしたり、刻みタバコに加工して販売を行っています。
西野の西隣りである在家塚地区に生まれた「若尾逸平」は甲州財閥の最初の成功者として有名ですが、在家塚村の役人の家柄ではありますが、次男だった彼は、まさに地域の木綿やタバコを天秤棒で担いで行商を行うことから身を立てています。明治の文明開化の流れを確実に引き当て、生糸の貿易で巨額の財産を築いた若尾逸平は、同じく甲州財閥で知られる山梨市出身の根津嘉一郎の伝記『根津翁伝(ねづおうでん)』の中のエピソードで、根津嘉一郎に同郷の先輩として目をかけ、投資哲学を教えたエピソードとしてこんな逸話が残っています。
「金儲けは、発明か、株に限る。 発明は学問がなければ、容易なことではない。株は運と気合だ。 若し、株を買ふなら、将来性のあるものでなければ望がない。 それは、**『乗りもの』と『あかり』**だ。 この先、世がドウ変化しやうとも、『乗りもの』と『あかり』だけは必らず盛にこそなれ、衰へる心配はない。」
(出典:『根津翁伝』より)
その話の通り、若尾逸平をはじめとする甲州出身の経済人はこぞって、「株」と、「のりもの」と「あかり」に投資しました。
そしてその投資した「乗り物」の優位性に目を付け、貧しい寒村の「西野村」に巨大プロジェクトと、様々な「発明」を持ち込んだ人物が現れます。
小野要三郎と功刀七内、山梨県で初めての桜桃、桃栽培挑戦と、温室ブドウ挑戦から始まるメロン栽培
明治時代になり、西野村では、たばこの栽培が盛んになっています。実は明治中期、若尾逸平の生家もある在家塚村は単なる農村ではなく、地域のタバコの集積地として、現代で言う「物流ハブ」や「商社街」のような活況を呈していました。
当時、山梨で作られる「甲州葉」は品質が高く、全国ブランドでした。
若尾逸平のような豪商たちが、農家からタバコ葉を買い集め、乾燥・加工して東京へ送り出すための巨大な「蔵(くら)」が、在家塚の街道沿いに立ち並んでいました。いまでも倉庫町という地名が残っています。
小野洋蘭果樹園の初代、二代目重兵衛は西野村の土地持ち農家(地主として土地を貸したり、自分でも生産する農家)として、自分の畑でタバコを栽培し、自分たちで加工して販売した記録が残っています。
明治37年(1904年)の「煙草専売法(たばこせんばいほう)」施行
そんなたばこ産業の繫栄は、ある日突然、国の政策によって「強制終了」させられます。
日露戦争の戦費調達のため、国がタバコの製造・販売をすべて独占し、民間の商売を禁止したのです。
昨日まで栄華を極めた「タバコ問屋」や「仲買人」たちは、一夜にして失業しました。
活気のあった倉庫群は、中身を失い、静まり返りました。
西野地区でタバコを栽培していた農家は、これを機会に、まだまだ需要の続く、養蚕にシフトしていく事になります。そんな中、煙草産業での繁栄を元手に他の産物に挑戦する農家が現れました。
小野要三郎による果樹栽培の挑戦

明治40年、西野村の北西部の清水地区にて小野要三郎氏が果樹園を開園
安政元年(1854)10月に現南アルプス市西野の地主の家に生まれた小野要三郎は、明治26年頃から牡丹杏や梨、桃などの果樹栽培を試みるようになり、明治40年~44年にかけて西野・清水にあったカラマツ林を開墾して、50アールに本格的に生業として果樹を植えました。この地の桃栽培は軌道に乗り、南アルプス市の果樹栽培の黎明期を象徴するものとなります。
最初の果樹苗は、埼玉県川口市安行(あんぎょう)から購入したと伝わっています。その後も大正2年に、小野要三郎氏は息子の義次に山形から桜桃(サクランボ)の苗木500~600本(貨車2台分)を大量に買い付けることを命じ、桜桃栽培を拡大しています。この地域の果樹栽培の特色は、それぞれの農家が色々な果物を栽培して、決して一つの品目だけに集中しないというのがあります。
当園でも今でも、すもも、桃、ぶどう、柿を栽培していますし、過去にはリンゴ栽培や洋蘭、温室さくらんぼなど1年を通じて収穫があるように、何か一つの作目が不作でも他の作目でリカバリーできるような経営を行っています。この栽培形態はこの地域独特のものですがこのような考え方の始まりとなっているのが小野要三郎氏の行動に始まっています。
その後起きた、大正9年の大霜害と繭価の暴落の時も、このようなリスク分散経営を進めていた西野の農家たちは被害を最小にすることが出来たのです。
当時海外から導入された、桃や、西洋のリンゴ、桜桃などの果実は非常に珍しく、日本中で栽培が試みられながら、戦前から産地として確立した場所はあまりありませんでした。いちばん大きな理由は、産地と消費地が離れていたという事です。明治の中頃から栽培が拡大した山形県の桜桃栽培も、鉄道を使っても1日以上かかり、しかも高級品の西洋果実を口にできるのは当時の富裕層でした。
小野要三郎はタバコ栽培、加工販売から続く大都市東京都のつながりから、次の作目に、日持ちのしない、栽培の難しい桃や桜桃(さくらんぼ)に挑戦しました。つながりの中には甲州財閥と呼ばれる山梨県出身の経済界のネットワークが間違いなく関係しています。
当時の資料に、後述する功刀七内氏に小野要三郎氏が宛てた「直筆功刀家宛書簡」という資料があります。
「小野要三郎直筆功刀家宛書簡」
[明治45年1月17日 西野功刀幹浩家資料(南アルプス市文化財課所蔵)]拝啓 謹言 昨日 上高砂小沢
伊ハ我承 是桃九十七代ト し
テ 委細ヲ入 金四百円ニテ 買
取呉候様申候 又 四五日
内之 又承知候ハ申付 無高
一寸申入候也
四十五年一月十七日
清水
小野要三郎
功刀七右衛門殿隣の地区の上高砂村の小沢さんと功刀さんの間で桃の苗木97本のやり取りを金400円で取引したのを確認しましたという文章です。
どちらが苗木を購入して、どちらが植え付けたのかはこの文章ではわかりませんが、明治45年当時の1円は公務員の給料換算で1.5万~2万円近い価値のある金額です。要三郎さんが大規模に果樹園を開園したのが明治40年~44年と記録に残っていますから、この明治45年は果樹園が成園になり、大きな利益が出始めた頃だと思います。
その時期に要三郎さんだけでなく周辺の農家も、果樹栽培に600万~800万円ものお金を投じてチャレンジしていることがこの文章から読み取れます。先述の文章でも、大正2年に貨車2台分の苗木を買い付けていますから、同様の苗代金としても、要三郎さんは1000万近い苗を購入しているのです。このことから読み取れるのは、この当時の西野村や周辺の農家ではすでに、
果物を栽培すれば「800万円投資しても儲かることが分かっていた。」という事と、
それだけの金額のお金を用意することが出来た
ということです。貧しい寒村でそんな投資が望むべくもないことは想像できると思います。
1903年明治36年に山梨県の甲府まで中央本線が到達します。今まで3日かかっていた東京への移動はわずか6時間に短縮されました。その鉄道便を利用して、要三郎さんの桃や桜桃は東京の神田青果市場(今の秋葉原のあたり)まで届けられました。それこそ当時のくだものはべらぼうな価格で取引されたと言われています。そしてそんな果樹栽培を目の当たりにした他の農家も果樹栽培に挑戦を始めます。
温室栽培への挑戦功刀七内氏
西野村の南、椚地区の豪農功刀七内氏は、愛知県の試験場で研修を受け、当時最先端のガラス温室による栽培を学んでいました。その設計図を持ち帰り自分の畑の一角で大正14年ガラス温室の建設を始めます。
栽培するのはヨーロッパで生食用ブドウの王様と呼ばれた「マスカットオブアレキサンドリア」
江戸時代を通じ甲州では勝沼地区で「甲州葡萄」が特産品として栽培されており、明治に入りワイン栽培を学ぶべく、海外に留学したり、新しい技術が導入されていきます。そんな中西野村ではガラス温室に石炭暖房の本格的なガラス温室によるヨーロッパ葡萄の栽培を始めたのです。ブドウは苗を植え付けてから約3年で実が実るようになります。
葡萄が実るそれまでの間がもったいないという事で、同じ愛知の試験場で学んだ温室メロンを間作として栽培しようと思いつき、サンマ樽に土を詰め、試験的に導入したつもりが、ことのほか高値でメロンが売れたのです。大正末期は不況となり、生糸の相場も下落する中、新しい作物として導入されたメロン栽培は瞬く間に西野全体に広がり、昭和5年に開通した山梨交通電車(通称ボロ電)の西野駅から大量のメロンが東京向けに発送されました。大正15年には1棟だけだったガラス温室は15年後の昭和14年には200棟に増えたと言いますからその繁栄ぶりが想像できるでしょう。
もちろんメロンだけでなく温室ブドウも高値で取引され、早朝中央本線で笹子トンネルを超えて甲府盆地に蒸気機関車が入ってくると朝日が西野村のガラスハウス群に反射して、ダイヤモンドのきらめきのようだったと言われています。
そんなメロン栽培も戦争中の贅沢禁止令と、空襲の目印になりやすい事、また空襲後はバラックの建材として供出され、現在はハウスの水の確保のための貯水池の後があちこちに残っているのみです。
戦争によって地域の果樹栽培は一時期姿を消しますが、戦後の果物需要に応えるため、瞬く間に生産は復活し、山梨県はももとぶどうの生産量は日本一を誇る果樹王国となりました。そんな果樹王国の最初の時期に西野村の先駆者の姿があったのです。
その後この地域は、先進的な技術や新品種の導入にどん欲に取り組んでいます。
例えば、山梨県で初めて農薬散布専門車両。スピードスプレヤーという機械を導入しました。また今では当たり前に使われている光センサーによる非破壊糖度検査の機械を導入したのも西野農協が日本初です。
また、スプリンクラーの圃場への導入についても、昭和28年日本で初めて導入した鳥取砂丘の事業と同じ昭和28年に同じ南アルプス市の飯野地区に巨摩試験場が開設されスプリンクラー散水の基礎調査事業が行われ、その後昭和40年代にはこの地域全体をスプリンクラーで散水する大規模な灌漑事業が始まっています。
時代の変化に合わせて常に新しい取り組みに挑戦する。この地域の果物づくりにはそんなスピリットが今も息づいています。